オッペンハイマー、ノーランと私

就職活動を一旦忘れ、クリストファーノーラン監督作品「オッペンハイマー」を観に、映画館へ足を運びました。前半は個人史としてノーラン作品との付き合い方を振り返り、後半は映画の感想について書いています。

ノーラン作品と自分の距離感

そもそもどうだっけ。というのを振り返ると私がノーラン作品に触れ始めたのは小学4年生ごろでした。自意識に毛が生えた様な年齢で、初めて「バットマンビギンズ」を観た時の衝撃たるや。スーパーヒーロー映画というジャンルすら知らなかった自分にとって、バットマンビギンズのリアリティは鮮烈でした。グラップリングフックから戦車の様な外観のバットモービルまで。無骨なガジェットのデザインが作品のリアリティを上手く演出していた様に思います。極力vfxを用いずに、スーパーヒーローが実在するというハッタリを映像に落とし込むノーランの手腕は見事としか言い様がありません。当時レンタルDVDで観た訳ですが、ディスクに収録されていたメイキングで初めて、クリストファーノーランその人の姿を知ります。「多額の資金を用いて自分の頭の中にあるビジョンを現実にする、映画監督は夢のような職業なんだ。」と豪語するノーラン(うろ覚え)。映画監督若しくは作家という存在を初めて意識した瞬間でした。その後も「ダークナイト」「インセプション」「インターステラー」と鑑賞していき、ノーランにハマり込んでいきます。数年が経つ頃には一週間に一度「ダークナイト応援上映を自宅のリビングで開催する様になっていました。しかしながら、中学、高校と歳を重ねるにつれて次第に私のノーランへの興味は薄れていきます。幼い頃に背伸びして大人向けのコンテンツを観ていた反動で、逆にファミリー向けのポップな映画に興味が逸れていったのかもしれません(中学生の頃は普通にスピルバーグとかゼメキスとかジョンヒューズが好きだった)「ダンケルク」「テネット」は当時配信で一応触れていましたが、ノーランだからと言うより話題作だからという理由で触れていたように思います。

SFとしてのノーラン

ダンケルク」にあまりピンと来ず、そもそも初期作に触れてもいない自分はあまりノーランのファンを堂々と名乗る事が出来ません。何故当時の私は初期作やダンケルクにピンと来なかったのでしょうか。それはたぶん心踊るガジェットが映画に存在しなかったからだと思うのです。私にとってノーランとはSFのひとでした。何やら難しい専門用語や理論を捏ねくり回し、無骨でイカしたガジェットを使い、困難な状況を打開する。そういった、ある意味での分かりやすさが好きだったのです。

オッペンハイマー感想

IMAXシアターで鑑賞しました。まず初めに、兎にも角にも今までの作品以上にダイアローグ主体の映画、という印象を受けました。ノーラン作品が揶揄されるとき、「説明台詞が多過ぎる」とよく言われます。確かに本作はダイアローグや長台詞が印象的ですが、今までの作品で顕著であった「映画のルール説明」という様な印象は本作には全くありません。原子爆弾の理論の説明より、どちらかと言えばオッペンハイマーという人物を掘り下げる意味で長台詞が用いられていた様に感じました。裁判や聴聞会と言ったシーンで、個々人がそれぞれの主観でオッペンハイマーについて語り、また彼自身を問い詰めます。しかしながら彼の実像をどう捉えるかは観客にある程度任されているという様な印象を受けました。オッペンハイマー自身が大量殺戮兵器を生み出してしまった事実に苦悩している様子は映像でしっかりと描かれていました。また、聴聞会で問い詰められた際に大きく狼狽える彼の姿も印象に残ります。嫌疑をかけられたオッペンハイマーが、自らの一貫性の無さに呆然としてしまうという描写は本作の白眉であるとも感じました。しかしながら、彼自身の内面について、観客側は映像から推し量ることしか出来ません。多くの人物がオッペンハイマーについて語り、また彼自身をカメラが常に捉える様な作品であるにも関わらず、そういった内面の描写では台詞を抑え、踏み込み過ぎず、一定の距離感で描かれていたのは本作においては成功だったと思います。実在の人物を描く訳ですから、伝記映画には一定の責任が伴います。余りにも人物の内面描写が断定的であると、その作品への疑念を観客は覚えてしまうでしょう。だからといって事実を単に配置していく様な映画では面白味に欠けます。断定的な作風になる事を避けながらも何か具体的な話の落としどころを探り、オッペンハイマーという人物に対する監督なりの私見を交えながら、観客を説得させるという。その全てを一本の映画で遂行しなくてはならなかったのですから、本当にこの題材を扱うのは大変なことだったのでしょう。それまで私自身はノーランに対して、現実離れした空想を途轍もないリアリティでフィルムに焼き付けていると言う様な印象を持っていました。本作においてノーランは、実在した個人という対象に対して限界まで真摯に取り組み、1人の人間が持つ情報量の途轍も無さに挑戦したのだなと感じられました。3時間があっという間でした。