オッペンハイマー、ノーランと私

就職活動を一旦忘れ、クリストファーノーラン監督作品「オッペンハイマー」を観に、映画館へ足を運びました。前半は個人史としてノーラン作品との付き合い方を振り返り、後半は映画の感想について書いています。

ノーラン作品と自分の距離感

そもそもどうだっけ。というのを振り返ると私がノーラン作品に触れ始めたのは小学4年生ごろでした。自意識に毛が生えた様な年齢で、初めて「バットマンビギンズ」を観た時の衝撃たるや。スーパーヒーロー映画というジャンルすら知らなかった自分にとって、バットマンビギンズのリアリティは鮮烈でした。グラップリングフックから戦車の様な外観のバットモービルまで。無骨なガジェットのデザインが作品のリアリティを上手く演出していた様に思います。極力vfxを用いずに、スーパーヒーローが実在するというハッタリを映像に落とし込むノーランの手腕は見事としか言い様がありません。当時レンタルDVDで観た訳ですが、ディスクに収録されていたメイキングで初めて、クリストファーノーランその人の姿を知ります。「多額の資金を用いて自分の頭の中にあるビジョンを現実にする、映画監督は夢のような職業なんだ。」と豪語するノーラン(うろ覚え)。映画監督若しくは作家という存在を初めて意識した瞬間でした。その後も「ダークナイト」「インセプション」「インターステラー」と鑑賞していき、ノーランにハマり込んでいきます。数年が経つ頃には一週間に一度「ダークナイト応援上映を自宅のリビングで開催する様になっていました。しかしながら、中学、高校と歳を重ねるにつれて次第に私のノーランへの興味は薄れていきます。幼い頃に背伸びして大人向けのコンテンツを観ていた反動で、逆にファミリー向けのポップな映画に興味が逸れていったのかもしれません(中学生の頃は普通にスピルバーグとかゼメキスとかジョンヒューズが好きだった)「ダンケルク」「テネット」は当時配信で一応触れていましたが、ノーランだからと言うより話題作だからという理由で触れていたように思います。

SFとしてのノーラン

ダンケルク」にあまりピンと来ず、そもそも初期作に触れてもいない自分はあまりノーランのファンを堂々と名乗る事が出来ません。何故当時の私は初期作やダンケルクにピンと来なかったのでしょうか。それはたぶん心踊るガジェットが映画に存在しなかったからだと思うのです。私にとってノーランとはSFのひとでした。何やら難しい専門用語や理論を捏ねくり回し、無骨でイカしたガジェットを使い、困難な状況を打開する。そういった、ある意味での分かりやすさが好きだったのです。

オッペンハイマー感想

IMAXシアターで鑑賞しました。まず初めに、兎にも角にも今までの作品以上にダイアローグ主体の映画、という印象を受けました。ノーラン作品が揶揄されるとき、「説明台詞が多過ぎる」とよく言われます。確かに本作はダイアローグや長台詞が印象的ですが、今までの作品で顕著であった「映画のルール説明」という様な印象は本作には全くありません。原子爆弾の理論の説明より、どちらかと言えばオッペンハイマーという人物を掘り下げる意味で長台詞が用いられていた様に感じました。裁判や聴聞会と言ったシーンで、個々人がそれぞれの主観でオッペンハイマーについて語り、また彼自身を問い詰めます。しかしながら彼の実像をどう捉えるかは観客にある程度任されているという様な印象を受けました。オッペンハイマー自身が大量殺戮兵器を生み出してしまった事実に苦悩している様子は映像でしっかりと描かれていました。また、聴聞会で問い詰められた際に大きく狼狽える彼の姿も印象に残ります。嫌疑をかけられたオッペンハイマーが、自らの一貫性の無さに呆然としてしまうという描写は本作の白眉であるとも感じました。しかしながら、彼自身の内面について、観客側は映像から推し量ることしか出来ません。多くの人物がオッペンハイマーについて語り、また彼自身をカメラが常に捉える様な作品であるにも関わらず、そういった内面の描写では台詞を抑え、踏み込み過ぎず、一定の距離感で描かれていたのは本作においては成功だったと思います。実在の人物を描く訳ですから、伝記映画には一定の責任が伴います。余りにも人物の内面描写が断定的であると、その作品への疑念を観客は覚えてしまうでしょう。だからといって事実を単に配置していく様な映画では面白味に欠けます。断定的な作風になる事を避けながらも何か具体的な話の落としどころを探り、オッペンハイマーという人物に対する監督なりの私見を交えながら、観客を説得させるという。その全てを一本の映画で遂行しなくてはならなかったのですから、本当にこの題材を扱うのは大変なことだったのでしょう。それまで私自身はノーランに対して、現実離れした空想を途轍もないリアリティでフィルムに焼き付けていると言う様な印象を持っていました。本作においてノーランは、実在した個人という対象に対して限界まで真摯に取り組み、1人の人間が持つ情報量の途轍も無さに挑戦したのだなと感じられました。3時間があっという間でした。

 

中国渡航二日目

早朝6時50分に起床。昨夜南京グランドホテルに到着したのが夜の12時でそこからチェックインして着替えて風呂に入ってとやっていたら寝るのが深夜2時頃になってしまった。睡眠時間は5時間程度。体がだるいが不思議と体調は良い。朝食はビュッフェ方式でこれまた色々食べた。餃子、炒飯、包子。南京の料理は日本の中華料理の味と近いんだそうであっさりめで食べやすい。ホテルの外観、内装に関しては昔泊まった日本の綺麗なホテルと似ていて部屋の設備も申し分なかった。が、電圧の関係でペアの子が持っていたヘアドライヤーが使えずタオルオフで髪の毛を何とかセットした為にボサ頭である。そもそもドライヤーくらいあるだろうと高を括って持ってきていない自分が恥ずかしい。今日は南京の高校生と交流する行事の後に南京城壁博物館、夜は夫子廟という予定。まずは南京市田家炳高級中等学校に交流会へと向かう。我々訪中団のメンバーは大学生、社会人、高校生で構成されていて年齢の幅が広い。中でも今回の訪中で最も活躍するのは高校生の2人だ。彼ら2人は愛知県でも有名な名門校出身で、日頃は塾通いで日夜勉強に励んでいるらしい。今日の交流会では彼らのうちの1人がディアボロ(砂時計型のコマを糸で操る大道芸の一種)の演目を壇上で披露した。日本と中国の重役共々大盛況だった。勉強の才もあれば大道芸も出来るなんて、これが才色兼備というやつなのだろう。その後団員は三手に分かれた。自分のグループは南京の高校生たちに校舎の二階にある教室へと案内された。彼ら南京の高校生たちは日本語がとても上手だ。それでも言語の壁が存在しないわけでは無いということを知ってか、非言語ゲームを中心としたプログラムで日中の学生たちの交流が始まった。絵しりとり、クイズ大会、南京の観光名所と南京料理の紹介、ダンスの披露。彼らは勉強熱心で可愛らしい感じだった。クイズ大会の正答者には南京のお土産が配られる。南京の土地の広さを勘で答え見事正解、パンダのかわいいキーホルダーを貰った。雑談が交わされるムードになったので、隣に座った南京の女学生に日本で人気のキャラクター「ちいかわ」を教える。彼女は「ちいかわ」を知らなかったらしい。彼女は「かわいいですね」と話した後に、ノートの片隅にひらがなで「ちいかわ」とメモを取る。日本語話者同士での会話とは一言一言交わす言葉の重さが異なるような感じがした。それにしてもこの教室の光景は何処か感動的だ。たった数十分に出会いの高揚感と別れの寂しさがある。異なる文化に思いを馳せ、言葉を交わす人々の姿は何処か映画的ですらある。南京市田高校の校舎は規模感が日本のものとは全く異なる。豊かな自然と大きな白亜の校舎が調和するような景観。道端で卓球やバドミントンで戯れる学生たち。どちらかと言えば日本の大学を想像して貰えば分かり易いだろう。何処か最近観た台湾映画「クーリンチェ少年殺人事件」の舞台となった校舎を想起させるものがある。交流会が終わると南京市田高校の生徒の案内で食堂に移動。高校支給の弁当を食べる。五香粉香る角煮と白飯、白濁したスープ。美味しい。うまく会話に入れずに1人で黙々とご飯を食べていたら、横に座った、訪中団の社会人の先輩に声を掛けてもらった。その先輩はいま社会人2年目で大学在学中に中国語スピーチコンテストの景品として中国旅行を勝ち取るもコロナの影響で行けなかったのだとか。2年越しに日中友好協会から連絡があって中国渡航が叶ったんです。という話を聞き、何だか他人事だとは思えなかった。全員で集合写真撮影を終え、一行は南京城壁博物館へ。道中、バスの窓から南京の都市景観を楽しむ。現代的なビル群と気が遠くなるような数の集合住宅。それでいて背の高い街路樹や巨人サイズの観葉植物のような、見たこともない植物が建物と建物の間に植っている。日本のこぢんまりとした地方都市の風景が身に染みついている自分にとって南京の景色は異様に写る。それでいて名古屋、大阪、東京といった日本の主要な都市とも規模感は圧倒的に異なる。複数の車線が並列する広い道路、縦型の信号機なんかはハリウッド映画で見たアメリカの公道を思わせるものがある。中国政府から雇われた若い役人がバスガイドを務め、流暢な日本語で街の景観や南京の文化について説明してくれる。南京に植っている街路樹はアオギリと呼ばれる品種なんだそうで、アオギリの枝が干渉してしまう為に二階建てのバスは南京に存在しないんだそう。それほど自然と人々の生活が近いということでもある。発展した街の中心部には瓦屋根と煉瓦で作られた中国の長い歴史を感じさせる伝統的な建造物がそのまま残されている。かつて孫文が建立した南京総督府を通り過ぎ、バシャバシャ写真を撮っていたらいつの間に南京城壁博物館に到着。先ずは空港と似たチェッカーマシンにリュックを通して持ち物検査。先ほどの役人が学芸員の解説をリアルタイムで翻訳する。事前に配られたイヤホンから解説の音声が聞こえる。こんなにも大規模な城壁がそのままの形で残されている都市は世界的にも見ても珍しいらしく、南京はとても稀有な街なんだそうだ。それでも壊された城壁はあるらしい。壊された南京城壁の煉瓦の一部は博物館に入ってすぐの展示室に綺麗にディスプレイされている。明朝時代の歴史から朱元璋の功績、火銃やら曲刀を眺め、一行は博物館を後にした。古代中国の歴史に対して見識が無さすぎて大学受験時代に聞き齧った永楽帝の名前くらいしか分からなかった。何となくアカデミックな気持ちになった後は実際の南京城壁の上へと登る。街を見渡せる、パノラマ的なスポットで暫く南京のスケール感に浸る。日が傾き薄橙の日の光が遠景のビル群の輪郭を曖昧にさせていて、美しい。南京城壁は見えないくらいまで遠く続いていてそれにも圧倒される。その後、バスで南京グランドホテルへと戻り、夕食会に参加。団の代表と中国語話者の役人と団員数名が一つのテーブルに集まりご飯を囲む。2回目の回転卓式本格中華。南京の高校生から勧められた塩漬けの鴨肉が美味しい。白酒とビールも大変美味しい。団の代表の方に「你还会再吃同样的东西吗?」と聞かれ、咄嗟の中国語に対応できず、意味もよく分からずに首を横に振るしかなかった。大変情けない。才色兼備の高校生が意味を答え、赤恥をかいた。少し悔しかったので「在日本、我喝过白酒」と数ヶ月前日本で飲んだ中国の「江小白」というお酒の画像を見せ、中国語話者の役人と少し交流した。残念な事に日程の関係で、予定されていた夫子廟観光は取りやめになってしまった。ビールと白酒の飲み過ぎで潰れながら夕食後はお土産を探して南京のスーパーへ。中国でしか見ないようなお菓子やお酒を一通り持ってレジに並び、決済をしようとした。しかしこちらの財布には大きいお札しかなく、お店側もお釣りがないのだそう。オロオロしていたら先輩が足らない分を払ってくれた。ありがとうございました。暫く歩いて帰路につき、ホテルに着く頃には酔いで頭が刺さるように痛い。体がベタベタするのが気持ち悪いので早速入浴する。シャンプー、リンスは持ってくるのを忘れた。必然的にホテル備え付けのシャンプーとコンディショナーで髪を洗う。匂いが日本のものとは異なる。中国独特の香りが身体に染み付くと思うと何だか嬉しかった。翌朝を考え、早めに就寝。

中国渡航一日目

年々旅行というものに対する苦手意識を感じ始めている。ともかく自分は持ち物の管理、時間通りの集合、着替えや諸々の準備などの行程に関しては以前からかなりの面倒くさがりである。結局のところ今回の日中友好協会主催の訪中が決まったので、現地での行き先や宿泊等の面倒なことは大体主催側がやってくれたし、準備は親の手を借りて海外に渡る事が出来た。これらの行程を1人でプランニングして実行するのは無理だっただろうなと思う。大学生なのだから数万貯金して近隣の長野や岐阜にでも、一度ぐらいは自分で計画して旅行とか出来たはずなのだが学部三年になっても、それすらやろうとしない、自分の行動力とか計画する事の下手さ、ものぐさ癖を顧みながら中部国際空港までの電車に揺られる。おおよそ20名くらいの団員たちが揃い、同学年のペアを組んだ子、大学の先輩に当たる人と談笑。暫くして飛行機に搭乗し、上海行き3時間程度のフライト。着くまで2時間だと思ってたけど時差の関係で1時間多いことに後で気づく。機内食は味気なかったけど特別悪い味でもなかった。気圧の変化で耳の中が刺さるように痛い。着陸してから耳から空気を抜くためにひたすら鼻を摘み空気を送る。耳の奥からプププみたいな変な音した。18時ごろ上海の空港に到着。パスポートチェックの間、団の代表の方と何故か隣になりレスリーチャンやトニーレオン等の明星、香港ニューウェーブのファンである事を熱弁。概ね好印象っぽい。外に出る頃にはすっかり日が落ちていた。お次は上海から南京まで何とおおよそ4時間の長距離バス。水曜どうでしょうの企画?初めての中国大陸の景色は圧巻。建物が信じられないくらいデカい。道も何もかも。遠景に見える大都市と工業地帯のコントラスト、少し霧がかった空気にネオン光が反射してボウっと光っている。大きな大きな鉄塔と手付かずの森林、発展した交通網が混然となった情景。暫くSF映画のような光景に目を爛々とさせていた。道の途中で中国最大のサービスエリアに降ろされ、回転テーブル式の本格中華に舌鼓。いや〜美味しかったです。蟹とか鰻とか拉麺とか角煮とか。団員の方から中国料理のイロハを教えてもらう。取る用の箸と食べる用の箸2種を使い分けて食べるんだとか。みんながご飯を囲んであっという間に仲良くなる頃には何となく輪に入れない自分が居て、少し寂しくなる。こんなところに来てまで孤独ぶるのはやめよう。しかしこのサービスエリア本当にデカすぎる。細かく見て回りたい気持ちを抑え、微睡みながらバスに乗る。24時過ぎにホテルに着くのだそう。wifiの容量がリセットされる前に今日の日記は終わりまた明日。

キリエのうた感想

岩井俊二監督の最新作「キリエのうた」。結構待ちわびていた作品。半年前くらいに公開のアナウンスがあった頃、自分はちょうど主要な岩井監督の作品をあらかた見終わり、頭の中で岩井監督の映画のイメージを繰り返し噛み締めて浸っていた時期だった。電車に乗れば外に見える田園風景が「リリィシュシュのすべて」のワンシーンのように思えたり、一眼レフカメラで写真を撮る時にやたらとフレアを入れてみたり。岩井監督の映画は人々が日頃目にしている日本の見慣れた情景に、美しく儚い人生の瞬間を重ねる。ありふれた景色を瑞々しく切り取るショットの美しさ、あり得そうであり得ない童話的なストーリーは岩井作品のトレードマーク。時折意図的に画面に入るフレアやカラーグレーディングからも透明感や白の印象を強く感じるし、青年期特有のメランコリーや懊悩を描く代表作「リリィシュシュのすべて」、女子高生2人の友情を描く「花とアリス」から岩井監督といえば青春というイメージを持つ人も多いと思う。新海誠も影響を公言しているし、岩井作品はのちの青春を取り扱った日本の創作物全てに影響を与えていると言っても大げさにならないくらいだと思う。それでいて「リップヴァンウィンクルの花嫁」など、近年の作品では人生のライフステージでも中盤、20代前半の社会人の時期を描くなど必ずしもティーンエイジャー、モラトリアムに焦点を当てている訳ではない。今作「キリエのうた」はどうだろうか。主人公の小塚ルカはみたところ20代前半だし、彼女を取り巻く、夏彦、イッコなどのキャラクターたちもルカと同い年くらいの設定。それでもやはり青年期と言えば青年期であることは確かで、青春の残り香のようなものも作品全体から感じる。映画全体の構成としては、しばしば夏彦、イッコ、ルカの過去が掘り下げられ、彼らが如何にして現在の状態に至ったかを回想の連続で説明する。過去の回想で物語の全容が明らかになるこの構成は岩井作品の中でも「love letter」を想起させるし、北海道帯広での雪のシーンも自作からの引用的なものを感じる。Twitterから繋がりを経て物語が動いていくのは「リップヴァン」だし、守りたかった人を守れない無力感で泣いてしまう夏彦は「リリィ」の雄一みたいに写る。イノセントの喪失、美しいモノを犯すと言った岩井俊二特有のダークでフェティッシュなモチーフも健在で、それらが表出する度に、岩井監督の過去作を想起しながら楽しむ自分がいる一方でこれを今楽しむ分にはちょっと引っ掛かりがあるのではないかと思う自分もいる。「リップヴァン」以前なら岩井俊二のダークな部分はリアリティや彼の作品の鋭い部分を担保しているのだと感じて、気にならなかったのだが、2023年現在においても性加害に巻き込まれる女性の姿を描きながら、それはあくまでもモチーフのままに留まる軽さ。性を切り売りする事でしか生きていけないイッコのアークに関しても最後まで放り出したままで、何処か核心を欠いた感じがする事も妙に引っかかる。夏彦とキリエ(姉)が両者共に高校生でありながら子供を出産する事に対して周りの大人が疑問なく全肯定というのも少し危うい感じがした。色々書いたものの、震災を経て日本の社会から見捨てられたルカ改めキリエが公権力を前にしてそれでも歌い続ける姿を描き切ったラストシーンはとても良かった。

日記 8月23日 祝21歳

10年来の友人と遊ぶ。彼の誕生日は3月で自分の誕生日が8月なので大体半年周期で互いの誕生日を祝い、その都度プレゼントを用意する習慣がある。振り返ってみればこの習慣がもう10年ほど続いているという訳なのだけど、これは本当に凄い事だと思う。今日は午後2時ごろから集まり、「バイペッド」と「レゴワールド」というゲームをプレイした。本当にざっくりと言ってしまえば僕ら二人の幼少期を形成したのは「リトルビッグプラネット」のような欧米製のアクションプラットフォーマーと「マインクラフト」が代表するようなサンドボックスゲームの二系統に分類される。バイペッドはリトルビッグプラネットのようなアクション性と無機質で柔らかいプレイフィールが印象的だったし、レゴワールドは言わずもがなマインクラフトのような自由度と世界の角張った輪郭、自動生成のフィールドの感覚がとてもノスタルジックな気分にさせてくれた。レゴワールドはプレイ中に天の声のようなナレーションが入り、ゲームプレイを誘導してくれる。この感覚もまた何処か懐かしい。揚げたてのポテトをコーラで流し込みながらプレイするゲームはいつだって最高。今日は特に自分がダーッと喋ったように思う。こんなに他人と喋る事があるのだろうかと自分でもびっくりするほどだった。直近では自分の就活、彼の院進の話から始まり、ゆくゆく家庭を持つのだろうかなどなど話す事は多かった。話していくうちに人生はあっという間だなぁなどと感慨に耽る一方であと何十年も生きる途方も無さを思った。友人が少ないこと、付き纏う寄る辺の無さについても特によく話した。そう思ってみると僕らの人生はまるでサンドボックスゲームのように思える。荒涼とした何も無い場所に独りで放り出され、居場所を作っていかなくてはならない。シビアな世界、サバイバルモードだ。エンダードラゴンを倒したところでゲームは終わらないのだ。途方も無く無限のようで有限だ。願わくば地道に採掘をし製錬して磨かれていく鉄鉱石のような人生にしていきたいものだとか思ったり。母親の用意したミートボールナポリタンを挟みながら互いを励ましたりする時間はとても有意義だった。自分は昔から人から貰ったものを捨てるのが苦手なので、大昔に彼から貰った年賀状や2人を写した10年前の写真がしっかりと残っていた。あの頃写した写真にはピースで隣り合わせで座る僕らの姿が映し出されていた。今日はあの頃と同じ構図でちょうどほぼ10年目の節目を祝して同じポーズでツーショット。10年続くならもう10年は続くだろうとそう思った。

車輪の下 うたかたの日々を読み終えた感想

大雨の中傘を忘れて駆け込んだ高架下の謎の空間。しばらく出る事が出来なそうなので、本の感想でも書いてみる。自分がある作家に夢中になった場合、大概その作家が誰に影響を受けたかを探る。そうして遡った時に現れた作家からまた関連した次の作家へと枝分かれする様に探っていきどんどん掘り進めていくということをする事がある。自分は飽き性なのでそうは言ってもいつも直ぐ探究の旅は終わる。と言うわけで最近はART-SCHOOL木下理樹から遡りヘルマンヘッセ車輪の下、ボリスヴィアンうたかたの日々を読んだ。両作品とも大変格好良くて夢中になった。本来ならヘッセ、ヴィアンの他作品も読んでいって暫く作家について考えるみたいなのが良いような気もするけど自分は普段ともかく文学、小説を全然読まないのでもっと網羅的に他の作家に触れてみたいと言う様な気分になった。なので次はコクトー恐るべき子供たちを読んで何と無くこれからフランス文学とかどんどん読んでいきたいと思っている。
車輪の下
ART-SCHOOLに同名の曲があって、本当にこの曲の歌詞で描かれるどうしようもない人間の情け無さが好きだった。「偽った苦しくて偽った車輪の下誰ひとり信じれず生きてきた」木下理樹の歌詞は孤独と狂気について描かれる事が多いけれど車輪の下は特に捻りがなくあまり詩的ですらなく、剥き出しの孤独と情け無さが全開だ。同名の小説があると知ったのは割と最近で古典的な青春文学の傑作という事だったので直ぐに買って二、三日で読み終えた。小さな農村の秀才ハンス・ギイベンラアトが学業に励み様々な挫折を経験し、自殺に至るまでを描くと言うのが本当にざっくりとした本作の粗筋。その学業の才故に周囲から多大な期待を掛けられたハンスがその重圧によって精神的に押し潰され、彼の若さ、豊かな青春が剥奪される様が描き出される。周囲の評価を過剰に気にしながら自分本位に生きることが出来ずに死んでいくハンスはとても哀れで読んでいくうちに滅茶苦茶入り込んで読んでしまった。寄宿学校に入ったハンスが生涯唯一の親友ハイルナアに特別な感情を抱き、友愛と恋愛の狭間で揺れ動きながらも些細な行き違いの末に二人の関係が解消される中盤の展開も儚くて綺麗だった。
・うたかたの日々
ART-SCHOOLの歌詞には頻繁に用いられるモチーフがある。イノセントを称えた少女、教会、血、なんと無くではあるもののそう言ったエッセンスをうたかたの日々から読み取ることは出来た。それ以外にもハツカネズミ、スケート場、クロエなどART-SCHOOLの楽曲で現れた数々のワードがそのまんまうたかたの日々に存在している。小説のあらすじは暫く遊んで暮らせるほどの経済的余裕のある6人組の若い男女がひっついたり離れたりしていたら全然お金が無くなって最後に破滅するという感じ。この小説、情景描写がとても突飛で刹那的で夢の様な脈略の無さ。最初はびっくりした。薔薇色の雲が降りてきたり、ハツカネズミが喋り出したり、カクテルを作るピアノマシンやら心臓抜きといった架空のガジェットまで存在するのだから読んでいて退屈しない。初めは若さと華々しさが溢れんばかりで主人公コランとその妻クロエの恋愛模様も初々しくて楽しい感じなのだけど、終盤にかけてどんどん雲行きが怪しくなる。金が無くなり、クロエは奇病で死に絶え、その遺体も滅茶苦茶にされ妻を失った衝撃に耐えられず終いにはただ水面を眺める悲惨な男の後ろ姿が残されるのみ。豊かな日々と破滅の対比が美しく、時折挟まる突発的な暴力描写も記憶に残る。ヴィアン本人が著した前書きに綺麗な少女とジャズ以外全部滅びてしまえと言う様な事が書いてあったけど正しくそんな感じの小説だった。

6月26日 ART-SCHOOL名古屋クアトロ

ここ半年間毎日ART-SCHOOLを聴き腐り、もう完全に脳内が木下理樹の詩世界によって支配されてしまった!レベルにまで心酔していたんだけど、このタイミングで名古屋に来るなんて最高。金欠気味の癖してチケット即決してここ最近は毎日楽しみにしていた。今日は念願のライブ当日。友達か若しくは姉が一緒に来る予定だったんだけどどっちも忙しいようでちょっと寂しかった。でも1人でライブに行くという経験が出来て凄く充実した気分になった!クアトロに行くのも初めてだったけど凄く音が反響して良かった〜。戸高さんと木下理樹トークが軽快ですごく楽しかった。喪失の痛みこそ本当に美しいというART-SCHOOLにおいて一貫した美学が大好きで本当に大好き。死んだ僕の彼女とART-SCHOOLのライブを終えてしまい生きるモチベーションがもう無さそう!という贅沢な悩みが出来た。